◆概要
"指導死(指導自殺)"とは、弁護士:杉浦ひとみ氏による造語である。学校内での教師の指導が原因で、児童生徒が突発的に自殺をすることを言う。
しかし"指導死"という言葉が存在しながらも、文部科学省が2001年から実施し始めた『児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査』によると、調査開始年〜2007年まで教師の指導等が原因で自殺をした児童生徒は1人もいない。新聞記事となり報道された、教師の指導がきっかけで自殺をしたと考えられる事件でも"指導死"という言葉は使用されていない。
本論文は「学校内での教師の指導が原因で児童生徒が自殺をすること」を意味する"指導死"という言葉が、新聞記事に登場しない理由及びマスメディアが扱わない理由を探り、なぜ"指導死"が"指導死"として認められないのか、その原因を考察するものである。
◆方法
本論文のテーマである"指導死"について明らかにし、学校教育における指導内容の変遷をたどり、新聞記事を通して"指導死"とマスメディアの関わりを調査する。その上でなぜ"指導死"が"指導死"として認められないのか仮説を立て、証明する。
◆結論
新聞記事を通して"指導死"が"指導死"として認められない原因を探るうちに、"指導死"という言葉を巡り、
1.学校側の視点
2.「保護者」の視点
3.遺族の視点 の3つの視点が絡み合っていることが見えた。
学校教育の現場はとても閉鎖的な空間であり、未だ外部からは見えにくいというのが現状である。学校という空間が権力作用を生み、教師も児童生徒も神聖化(あるいは一定の役割期待)を押し付けあっていることがこの視点から理解できた。
本来、学校と教師、それから保護者や学校が存在する地域の住民は、共に協力し合い児童生徒のこれからを支え、見守っていく組織であると私は考える。それぞれの組織がそれぞれに孤立している今だから、このように"指導死"という言葉が登場し、学校や教師、「保護者」、遺族、そして児童生徒にとって悲しい現状が生み出されてしまったのだ。
この、ある種マスメディアが作り上げてきた教師や児童生徒の神聖化(「教師聖職論」、「子ども天使論」)が学校教育現場において強力に働き続けてきたあまり、"指導死"を"指導死"として扱ってしまうと学校という組織全体の崩壊に繋がりかねず、これこそがマスメディアが扱うことのできない原因となっているのである。