本論では、正義の本質について検討を試みられた。「正しいこと」がなんなのかということは、人の中で内面化された合理的な考え方により判断される。そしてその合理的な考え方が、人間が成長過程で関わる社会集団のルールに関係していることからどのようなルールが存在するかが重要である。そしてそれらの複合がその人個人の合理的な考えになるのである。このような前提のもと、社会集団の代表として国家のルールである法律を見ていった。現在の近代国家の多くでは三権分立によるもので、成り立っているがそれは国家により変わってくる。このことからも社会集団との関わりにより合理的な考え方が個々の人間でよって違ってくることが考えることが見出されたのである。また、アリストテレスは正しい行為を行うためには適切な「状態」であることが必要であるという事を述べた。「状態」は様々であるがどれも幸福を目指すものであり、習慣により身につくのである。その上で正義がどのような「状態」によるものかについて見ていった。それは不正義という面の逆であると考えられ、それは法に従うことや均等的な人とされた。均等とはつまり良いものされる中の「状態」にすることである。しかし、法は国家によって変わり、悪法もあることから法に従うことが必ずしも正しいとは限らないといえよう。
結論として絶対的な正義を証明するのは難しい。だが一般的に語られる正義を考えるならば二つのことが言える。まず社会集団において違反的とされる行為を行わないこと。そしてやはり過超や欠乏は悪いとされるのでそのような「状態」にならないこと。この二つを行うには社会集団でそれらがどのように認可されているか知る必要がある。そのため正義を維持するためには「状態」を保つ精神力と多彩な知識が必要になると考えられるのである。