ヒトがサルから進化したばかりのころ、周りは敵だらけだった。ヒトは二足歩行ができ、両手が自由に使えるという以外にほかの動物より特化した部分が無かった時代には回りにいるすべての肉食動物から逃げながら生活するしかなかった。しかし、自由な両手でさまざまなものを道具として使うことで徐々に脳を発達させ、道具を組み合わせたり、加工して武器や調理器具などの生活用品を作ることができるようになった。すると今まで脅威だった周りにいる肉食動物は自分たちの食料に代わっていった。
時代が進み狩猟生活から定住生活に変わるとヒト同士の縄張り争いが起こるようになった。自分たちがより良い生活をおくるために土地や食料を奪い、相手を支配し始める。
昔の戦争では現在のように大勢対大勢という形ではなく、一騎打ちという形が多かった。さらに武器は鉄製のものでなかったため、死者が出ることも少なかった。理由としては小規模な集団での多対多の争いは双方に甚大な被害を残す可能性があるためである。とても規模は小さいがこれも戦争である。
古代において農業が発達していってからは人口が増加し、富が蓄えられ、国家体制が整えられていき、戦争の規模も拡大する。また土器・石器から青銅器・鉄器を利用した兵器や武器の開発が進み、軍事力の能力が飛躍的に発展して大国化する国家が現れ始める。部族集団が都市国家へと成長し、ペルシアやローマのような帝国に発展したのが例として挙げられる。またこの時代には科学技術が発達して、戦車(二輪)や投石器、弓矢などが新兵器として登場し、戦争の形態をかつての儀式形式から会戦という形態に移行していった。
日本で最初の大きい戦争は飛鳥時代に蘇我氏対物部氏の豪族同士の争いだった。大きいといっても5千〜6千人の軍勢で戦闘が繰り広げられていた。1万を超える軍勢で戦い始めたのは平安時代になってからだった。このころの戦争はいきなり会戦するのではなく、先ずは軍使を交換し、合戦の日時、場所を決定する(この時、軍使の安全は保障される)。当日、両軍が相対し、準備が整ったら宣伝合戦を行なう、代表者が出て自らを名乗り、祖先からの武勲や味方の正当性、相手方の不義をあげる。同じことを相手もする。矢合わせ参大きな矢尻と笛のついた鏑矢を射ち合い、鬨の声を上ぼる。ここからやっと実戦に入る。最初は矢戦と言い、騎馬武者が敵に近づき矢を射る。この後は乱戦に入る。最後に勝者は勝鬨を上げ戦は終了する。しかし、この儀式も平安末期には失われ始める。
室町時代になると応仁の乱と呼ばれる大戦が行われる。これは10万対10万の戦いで長期にわたって戦闘が続いた。その後戦国時代となり織田信長が桶狭間の戦いにて今川義元を征し、一向一揆を鎮めることで室町時代を終える。この織田信長は幼少から青年期にかけての奇矯な行動から「尾張の大うつけ」と呼ばれていた。また、信長はその当時日本に入ったばかりの火縄銃(種子島銃)を配備したり、南蛮品を好み、戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けていたと言われている。さらに、身分にこだわらず、民と同じように町の若者と戯れていた。その姿勢は年をとっても変わらず、信長は家臣に対する冷徹な態度