塚本晋也という映画監督に出会ったのは『六月の蛇』という映画からである。この作品を観た後、なんともいえぬ脱力感ともやもやした感情がこみあげてきた。また、その映像の力に驚いた。不条理でなんともいえぬ映像の構成、生々しさ、喜怒哀楽が全て盛り込まれていた。そこに現在自分の持っていた言葉に出来ぬ感情が全て表現されているように感じた
そして、他の作品を観ていくうちにそこにある魅力に取り付かれていった。そして、さらにその映画の世界について知りたいと考え、今回この論文を書くに到った。そして、そこから塚本映画の世界観やルーツ、どのような考えで作品が作られたのかなどを見出したいと考えている。
塚本映画では常に人の弱い部分と強い部分が描かれている。そして、みな都市の中で生きている人々が主役である。そして、常に「生きることとはなにか」を観客に投げかけている。喜怒哀楽の中の「怒り」と「哀しみ」に共感を覚えた。人を憎しみ、傷つけそれによって自分を探す、哀しみのどん底に落ちていきそこから這い上がろうとするエネルギー、それらが強いメッセージとして残った。
塚本映画は一見、映像を重視したものである印象が強い。確かに彼の映像が抽象画の様に曖昧な部分が多い。それはイメージ映像や人物主観映像が多く使われているということも要因としてあるが、構成においてもこだわりを持って作られている。それは4項からも読み取れる。登場人物の感情をいろいろな形で描き、人々の変化も明確に構成され作られている。それは、後の作品になるほど綿密になっていく。そして、メッセージも明確に提示されるようになっていく。しかし、映像でしか出来ないことを常に行おうとしている姿勢には変わりない、それは妥協の無いない映像表現からも読み取れる。
映像でしか表現できないことの追求。人間の狂気・感情の爆発。都市の中で物語として強調され、「人」という存在、「生」の存在を常に観客へ投げかける。それらのメッセージ塚本映画にとって重要な骨組みとして存在している。人間の感情を映像にする技法、暴力的な映像世界、それらをバランスよく一つの作品としてまとめる力。それらが、あったからこそ塚本晋也にしか取れない映画を生んできたのだろう。