新選組とは、局長近藤勇を筆頭に武芸に優れたものを中心に形成された浪士隊である。その中に、助勤・十番隊の組長として隊に大きく貢献した、原田左之助という人物がいる。彼の数少ない資料を基に、原田左之助の歴史上における功績・人物像に迫る。
彼が世に名前を知らしめた一つの理由として、坂本竜馬暗殺の下手人とされたということが挙げられる。現在、暗殺犯は新選組同様京都の治安維持に貢献した見廻組とされているが、当時は原田左之助に嫌疑の目が向けられ人々もそれを疑わなかった。何故、原田左之助が暗殺犯と疑われることになったのか、その経緯と暗殺犯の動きを追う。
原田左之助の最期とその動向は、現在も多くの謎に包まれている。新選組を離脱し、一人の武士となった原田左之助は、戊辰の混乱の中上野戦争に身を投じる。上野の山に立てこもった原田左之助は幕府軍として彰義隊に参加した。原田左之助の参加した彰義隊とはいったいどのような集団だったのか。また、全く記録のない左之助の足取りはどのようなものであったのか。また、その後満州へ渡り馬賊の頭領になったという伝説の行方を追う。
新選組の実質的な統率者であり副長の土方歳三は、瓦解していく幕府の元で寄せ集めの浪士集団を最強の武士集団へと変貌させた。厳しい規律で隊士を正し、守らなかったものは切腹・斬首という厳しい刑に処した。有名な池田屋事件の際には、捕縛した長州藩士古高俊太郎に犯行計画を自供させるため、天井から吊るし足の裏に五寸釘を打つという拷問を加えた。このような行動から"鬼"と呼ばれた土方歳三は、日野の農家の生まれである。彼の新選組副長としての能力がどのように培われたのか。また、当時の少ない資料の中から土方歳三の当時の暮らしぶりを考える。